脳が「処理しきれなかった記憶」を整理する――EMDRという選択肢

トラウマ

「あの出来事は、もう終わったはずなのに」 「頭ではわかっているのに、身体が反応してしまう」 「同じ記憶が、何度も頭をよぎる」

このような経験はありませんか。

過去のつらい出来事は、時間が経てば自然に薄れていくことがあります。しかし、強い衝撃を伴う体験や、長期にわたるストレスは、脳の中に「未処理のまま」凍りついてしまうことがあります。

これが、フラッシュバック、慢性的な不安、身体症状、あるいは説明のつかない痛みとして、今も繰り返し現れている可能性があります。

EMDRは、こうした「処理しきれなかった記憶」に、脳本来の整理する力を取り戻すことで向き合うセラピーです。


1. トラウマ記憶はなぜ「処理されない」のか

通常、私たちが体験した出来事は、睡眠中や日常の中で脳によって自然に整理され、「過去の出来事」として記憶に収まっていきます。

しかし、強いショックや恐怖を伴う体験をしたとき、脳の情報処理システムが一時的にフリーズしてしまうことがあります。その結果、出来事の記憶が適切に処理されないまま、生々しい感情や身体感覚とともに「今まさに起きていること」のように凍りついた状態で残ってしまいます。

これがトラウマ記憶の正体です。

このような記憶は、何年経っても、似たような状況や感覚に触れると突然呼び覚まされます。身体が緊張し、心拍が上がり、あたかも過去の出来事が「今ここで」起きているかのような反応が引き起こされます。


2. EMDRとは何か

EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing/眼球運動による脱感作と再処理法)は、1989年にアメリカの心理学者フランシーン・シャピロ博士によって発表されたセラピーです。

開発のきっかけは、シャピロ博士自身が散歩中に眼球を左右に動かしながら考え事をしていたとき、気になっていた思考が和らぐことに気づいたことだったと言われています。

その後の研究により、眼球運動(または音・タッピングなどの両側性刺激)を使いながらつらい記憶に向き合うことで、脳の情報処理が促進され、記憶の「凍りつき」が解けていくことが明らかになりました。

現在EMDRは、WHO(世界保健機関)をはじめ、APA(アメリカ心理学会)、ISTSS(国際トラウマ研究学会)、英国保健省、米国防省など、世界各国の主要機関がPTSDに対する有効な治療法として推奨しています。また近年では、PTSDにとどまらず、慢性痛、不安障害、うつ、心身症など幅広い症状への適用も広がっています。


3. 実際のセッションではどんなことが起きるか

EMDRのセッションは、いくつかの段階を経て進められます。

準備段階 まず、セラピストとの信頼関係を築き、安心・安全の感覚を確認します。過去のつらい記憶に向き合う前に、神経系が安定した状態であることが重要です。

記憶へのアクセス 処理したい記憶を心の中に思い浮かべながら、その時の映像・感情・身体感覚・否定的な考えなどを確認します。「あの時、自分はだめだと思った」「恐怖で身体が固まった」といった具体的な体験です。

両側性刺激 セラピストの指の動きを目で追う、または音やタッピングなどの刺激を受けながら、記憶に意識を向けます。この間、無理に何かを考えたり、感じたりしようとする必要はありません。「ただ、浮かんでくるものを観察する」という感覚で進めます。

認知の書き換え
EMDRが「再処理(Reprocessing)」と呼ばれる理由がここにあります。
セッションでは、処理したい記憶に結びついた「否定的な認知(信念)」を最初に確認します。たとえば:

  • 「あの時の自分はだめだった」
  • 「自分には価値がない」
  • 「自分は無力だ」
  • 「自分は今も危険にさらされている」

これらは過去の体験から形成された否定的な信念です。
次に「本当はこう感じたい」という肯定的な認知を確認します。「あの状況でできる限りのことをした」「今の自分は安全だ」「自分には価値がある」といったものです。
両側性刺激を重ねるにつれて、記憶に伴う苦痛が和らぐとともに、否定的な認知が自然に肯定的な認知へと書き換わっていきます。記憶そのものは変わりませんが、その記憶が自分自身に与えていた意味が変化していくのです。

変化の確認 刺激のセットごとに、記憶に関連する感情・身体感覚・考えがどのように変化したかを確認します。多くの場合、記憶に伴う苦痛が少しずつ和らぎ、「あれは過去のことだった」という感覚が育まれていきます。

セッションが進むにつれて、かつてはフラッシュバックのように甦ってきた記憶が、「確かにあったけれど、今は過去のこと」として収まっていく変化が起きます。


4. SE™との違い・組み合わせ

同じトラウマへのアプローチとして、SE™(ソマティック・エクスペリエンシング®)との違いをよく聞かれます。

簡単に言えば:

  • SE™は、身体感覚を手がかりに、神経系に蓄積された緊張を少しずつ解放していくアプローチです。「今ここ」の身体の感覚を重視します。
  • EMDRは、脳の情報処理を促進することで、過去の記憶の「凍りつき」を解いていくアプローチです。特定の記憶にアクセスしながら進めます。

どちらが良いかは、その方の状態や背景によって異なります。当オフィスでは、カウンセリングを通じてどちらが合うかを一緒に考え、必要に応じて両方を組み合わせながらセッションを進めます。


5. どんな方に向いているか

EMDRは、以下のような方に特に有効とされています。

  • 過去の事故・手術・災害・暴力などの体験が、今も頭や身体に残っている
  • フラッシュバックや悪夢が続いている
  • 特定の状況や感覚で、突然強い不安や恐怖が引き起こされる
  • 「あの出来事のせいで、今の自分はだめだ」という思い込みが根強い
  • 身体症状(慢性痛・緊張・疲労)の背景に、過去の体験が関係している可能性がある
  • 「話すカウンセリング」では変化を感じられなかった

まとめ

EMDRは、過去のつらい体験を「なかったこと」にするのではなく、脳本来の力で適切に処理し、「過去の出来事」として収められるようにしていくセラピーです。

記憶は変えられません。しかし、その記憶が今の自分に与える影響は、変えていくことができます。


セラピーオフィス・ほとりでは、SE™(ソマティック・エクスペリエンシング®)をベースに、必要に応じてEMDRを組み合わせながらセッションを進めています。どちらが合うか迷っている方も、まずはお気軽にご相談ください。


参考文献

本文中の引用・参照(簡略表記)

  • シャピロ, F.(市井雅哉監訳)『EMDR——外傷記憶を処理する心理療法』二瓶社、2004年
  • ヴァン・デア・コーク, B.(柴田裕之訳)『身体はトラウマを記録する』紀伊國屋書店、2016年
  • World Health Organization (2013). Guidelines for the management of conditions specifically related to stress. WHO.

参考文献(APA形式)

Shapiro, F. (2018). Eye movement desensitization and reprocessing (EMDR) therapy: Basic principles, protocols, and procedures (3rd ed.). Guilford Press.

van der Kolk, B. A. (2014). The body keeps the score: Brain, mind, and body in the healing of trauma. Viking.(柴田裕之訳『身体はトラウマを記録する』紀伊國屋書店、2016年)

World Health Organization. (2013). Guidelines for the management of conditions specifically related to stress. WHO Press.

Bisson, J. I., Roberts, N. P., Andrew, M., Cooper, R., & Lewis, C. (2013). Psychological therapies for chronic post-traumatic stress disorder (PTSD) in adults. Cochrane Database of Systematic Reviews, (12).