ストレス・トラウマを理解する神経生理学的根拠を再検討する――再考:ポリヴェーガル理論

支援者・医療者向け

このブログで、『慢性痛とストレス・トラウマ支援のための神経系理解』および『あなたを守る神経系のはたらき』において、ストレス・トラウマ・慢性痛について考える際に必須と考えられる神経生理学の理論をご紹介してきました。

近年、トラウマの神経生理学的根拠となっている世界的に有名な理論があります。ポリヴェーガル理論です。このブログでは、ここまであえてポリヴェーガル理論については触れてきませんでした。

私自身は、ポリヴェーガル理論に依拠して学会自主シンポなどで発表してきました。関連の書籍を読んだり、自主勉強会でも取り上げてきました。

しかし、現在、ポリヴェーガル理論に関する疑問が指摘されるようになっています。今回のブログでは、世界的に有名なポリヴェーガル理論に関する疑問を提起してみたいと思います。これは専門家向けの内容です。

1. ポリヴェーガル理論とは何か

ポリヴェーガル理論(Polyvagal Theory: PVT)は、アメリカの神経科学者スティーブン・ポージェス(Stephen W. Porges)が1994年に提唱し、その後2007年・2011年の著作を通じて体系化した理論です。

PVTの核心は、自律神経系を従来の「交感神経・副交感神経」という二分法ではなく、進化的な系統に基づいた三層構造として理解するという点にあります。

三層構造の説明

第一層:背側迷走神経複合体(Dorsal Vagal Complex)

背側迷走神経複合体は、爬虫類から引き継いだ「古い」システムとされます。生命の危機に際して、迷走神経背側運動核(DMV)を通じた無髄線維によって、心拍数を急激に低下させ、凍結・シャットダウン・解離・偽死反応を引き起こすとされます。PVTではこれを「背側迷走神経シャットダウン」と呼びます。

第二層:交感神経系

交感神経系は、闘争・逃走反応を担います。危険を感じたとき、心拍数・呼吸数・筋緊張を増加させ、行動への準備を整えます。

第三層:腹側迷走神経複合体(Ventral Vagal Complex)

腹側迷走神経複合体は、哺乳類が新たに獲得した「新しい」システムとされます。疑核(Nucleus Ambiguus: NA)を通じた有髄線維によって、安全の状態で心拍数を細やかに調整し、社会的関与・共調整・感情の柔軟な調節を可能にするとされます。

PVTはさらに、RSA(呼吸性洞性不整脈)を中枢迷走神経活動の直接的な指標として位置づけ、RSAの振幅が大きいほど「腹側迷走神経系」が活性化していると主張します。

日本への普及と臨床への広がり

PVTは2010年代以降、トラウマ治療・心理療法・教育・医療の分野に急速に広まりました。EMDRとの統合、ソマティック・エクスペリエンシング(SE)の理論的基盤、センサリモーター・サイコセラピー(SP)・自我状態療法など、多くの療法体系にPVTが組み込まれています。

日本においても、翻訳書・専門書の刊行を通じて広く普及し、現在では多くの心理職・医療職・援助職がPVTの枠組みを臨床実践に用いています。

2. これまでの記事との違い

このブログでは、これまでに以下の記事で神経系の理解をご紹介してきました。

『あなたを守る神経系のはたらき』(一般向け)
『慢性痛とストレス・トラウマ支援のための神経系理解』(専門家向け)

これらの記事で示した神経系の理解は、ポリヴェーガル理論とは重要な点で異なっていました。以下、その相違点について触れます。

【疑核(NA)の説明】

第2回の記事では、疑核(NA)を「副交感神経系の心拍制御の主役」として紹介しました。そしてDMVの心拍制御への関与は「限定的」であることを示しました。

PVTはNAを「社会的関与を可能にする腹側迷走神経複合体の中枢」として位置づけ、DMVを「凍結・シャットダウンを媒介する背側迷走神経複合体の中枢」として位置づけます。両者の機能的区分がPVTの骨格です。

しかし第2回で示したように、実験的証拠はNAが心拍制御全体の主役であることを示しており、DMVの心拍への関与は限定的です。

凍結の理解

第2回の記事では、防衛カスケードのステージ2として「能動的凍結」を紹介しました。凍結は交感・副交感の同時活性化による、能動的・目的的な神経状態として理解されます。

PVTは凍結を「背側迷走神経シャットダウン」、すなわちDMVによる受動的な崩壊として説明します。この説明は現在の神経科学的知見と大きく異なります。

RSAへの言及がなかった理由

ブログの第1回・第2回では、RSA(呼吸性洞性不整脈)への言及を意図的にしませんでした。PVTはRSAを理論全体の唯一の測定可能な根拠として中心に置きますが、RSAは中枢迷走神経活動の直接指標としては不正確であるためです。この点については後述します。

3. 科学的批判の登場

2023年以降、ポリヴェーガル理論の神経生理学的根拠に対する本格的な科学的批判が登場しました。

最初の重要な批判は、スイス・バーゼル大学病院のPaul Grossmanによる単著論文です(Grossman, 2023)。この論文はPVTが依拠する5つの基本前提を一つずつ検討し、現在の科学的知見によってそれぞれが支持できないことを示しました。

さらに2026年1月、Grossmanは39名の国際的専門家とともに共著論文を発表しました(Grossman et al., 2026)。注目すべきは、共著者の多くがPVT文献の中で「支持論文」として引用されてきた当事者たちであるという点です。「自分たちの研究が誤用されている」と感じた専門家たちが集まって書いた論文という側面があります。この論文の結論は明確です。「PVTは、既存の神経生理学的・進化的証拠に基づいて擁護できないため、支持できない」というものです。

以下、この二つの論文が指摘する主要な否定点を説明します。

否定点1:NAとDMVの機能的区分について

PVTの最も根本的な主張は、NA(疑核)とDMV(迷走神経背側運動核)が「それぞれ異なる機能を持つ」という機能的区分です。NAが腹側迷走神経複合体として社会的関与・安全を担い、DMVが背側迷走神経複合体として凍結・シャットダウンを担うという説明がPVTの骨格です。

しかし実験的証拠の大多数は、心拍制御はNAが主に担っており、DMVの心拍への影響は限定的であることを示しています。

約50年前にMcAllen & Spyer(1976)は、猫において心拍数を低下させる神経細胞はすべてNAに存在し、DMVには存在しないことを示しました。その後、多数の研究がこの知見を支持しています(Farmer et al., 2016; Veerakumar et al., 2022)。

最新の光遺伝学的手法を用いた研究では、DMVニューロンを強力に刺激しても心拍数低下への影響は7%以下(無視できる程度)であることが示されています(Machhada et al., 2020)。同論文の上級著者であるGourineは個人的に「同程度の刺激をNAに与えれば心臓が停止する可能性がある」と述べています。

またPVTが主張するDMVによる「大規模な徐脈」については、Grossman et al.(2026)は「大規模なDMV媒介徐脈を報告した研究は一つも存在しない」と結論づけています。

否定点2:「背側迷走神経シャットダウン」について

PVTは凍結・解離・心理的シャットダウンを「背側迷走神経シャットダウン」として説明します。DMVの無髄線維が心拍を急激に低下させ、生命を脅かすほどの徐脈を引き起こすとするこの概念は、PVTの中核的な臨床的主張です。

しかし第2回の記事で示したように、凍結は現在の神経科学では受動的な崩壊ではなく、交感神経系と副交感神経系が同時に高く活性化する能動的・目的的な神経状態として理解されています(Roelofs & Dayan, 2022)。

さらに重要なのは、ヒトにおける感情的凍結・心理的解離の際に「大規模な徐脈」が起きるという証拠がほとんど存在しないという点です。感情的凍結や解離の際に特徴的な大規模徐脈は確認されておらず、むしろ心拍数の変化はないか、代謝的な活動低下に伴う軽微な減少に過ぎないことが示されています(Beutler et al., 2022; Roelofs & Dayan, 2022; Danboeck et al., 2024)。

加えて、哺乳類における感情的凍結に対する迷走神経反応は、DMVではなく腹側に位置するNAによって主に媒介されるという結論も示されています(Neuhuber & Berthoud, 2022)。これはPVTの主張と真逆です。

「背側迷走神経シャットダウン」という概念は、ヒトにおける証拠がなく、神経解剖学的にも支持されないと言わざるをえません(Grossman et al., 2026)。

否定点3:RSAについて

PVTはRSA(呼吸性洞性不整脈)を「NAから心臓への迷走神経出力の直接的な中枢指標」として位置づけています。この主張がPVTのほぼすべての前提の測定的根拠となっています。

しかしRSAは中枢迷走神経活動の直接的・信頼性の高い指標とは言えません。RSAは呼吸数・換気量の影響を強く受け(Hirsch & Bishop, 1981; Grossman et al., 1991)、交感神経活動もRSAに影響します(Grossman & Kollai, 1993; Taylor et al., 2001)。加齢・心臓内在神経系など多くの要因がさらなる交絡をもたらします(Lakatta, 2025)。

国際的な専門家合意声明は、RSAを「呼吸性心拍変動(RespHRV)」として再定義することを提案し、RSAが心臓迷走神経緊張の直接指標ではなく、呼吸と心拍の協調の指標に過ぎないことを明確にしています(Menuet et al., 2025)。

Grossman(2023)はPVTのRSA解釈を「カテゴリーミステイク」と呼んでいます。RSA(現象の近似的指標)を、心臓迷走神経緊張(現象そのもの)と同一視するという概念的誤りです(Ryle, 1949)。

否定点4・5:進化的主張について

PVTは有髄の心臓迷走神経線維とRSAを哺乳類固有の特徴とし、これが社会的行動・情動的柔軟性の神経生理学的基盤だと主張します。「爬虫類と鳥類は、哺乳類の自律的柔軟性と社会的関与を定義する有髄の心臓抑制性迷走神経遠心路を欠いている」(Porges, 2011)というものです。

しかしこの主張は「進化的」事実に反します。有髄の速伝導心臓迷走神経線維は、サメ・硬骨魚・肺魚・鳥類・哺乳類を含む全脊椎動物グループに存在することが示されています(Taylor et al., 2022)。RSA様の呼吸関連心拍変動も、魚類・両生類・爬虫類・鳥類に存在します(Sanchez et al., 2019; Duran et al., 2020; Taylor et al., 2022)。

さらにPVTが「社会行動に乏しく防衛反応のみ」と位置づける爬虫類においても、長期ペアボンド・共同育児・協調行動・社会的学習など、多くの哺乳類と重複する複雑な社会行動が記録されています(Doody et al., 2013, 2021)。

4. 臨床実践への示唆

PVTの神経生理学的根拠に重大な疑問が提起されたとき、臨床実践はどうなるのでしょうか。

重要な区別

まず重要な区別をする必要があります。

Grossman et al.(2026)自身が述べているように、この批判はPVTが取り扱う心理的概念・臨床的観察を否定するものではありません。

否定されるもの:

PVTの神経生理学的説明
(NAとDMVの機能的区分・
背側シャットダウン・
RSAの直接指標性・
有髄迷走神経の哺乳類固有性)

否定されないもの:

臨床的観察・心理的概念
(安全の感覚・社会的関与・
共調整・凍結反応・
身体感覚への注目の重要性)

PVT以前から存在した概念

PVTが臨床で重視する概念の多くは、PVTが登場する以前から心理学・精神医学の研究に存在していました。

安全の感覚はMaslow(1943)、社会的関与はBowlby(1969)、共調整はBrazelton et al.(1975)、耐性の窓はSiegel(1999)、身体からのアプローチはvan der Kolk(2014)・Ogden et al.(2006)にその源流があります。これらはPVTという枠組みなしに、それぞれ独自の根拠を持っています。

誤った説明の問題

一方で、誤った神経生理学的説明を使い続けることには問題があります。

Grossman et al.(2026)は「誤った枠組みと未実証の指標を脆弱な集団(トラウマを抱えた人々)の治療指針として使用することは、科学的に妥当でも倫理的に受容可能でもない」と述べています。

「あなたの神経系は背側迷走神経のシャットダウン状態にある」という説明は、神経生理学的には根拠のない説明です。しかしクライエントはそれを「科学的事実」として受け取ります。より正確で、かつより力を与える説明が、第1回・第2回で示した枠組みにはあります。

5. 問いとして

PVTを使っている臨床家を批判したいのではありません。私自身もそうでした。

学会での発表、勉強会での議論、クライエントへの説明――PVTの言葉は確かにわかりやすく、臨床的な観察と「合っている」ように感じられました。その感覚は今も理解できます。

しかし科学は更新されます。

Grossman et al.(2026)の論文が示したことは、PVTの神経生理学的説明が「まだ議論の余地がある」というレベルではなく、現在の神経生理学的・進化生物学的証拠によって「支持できない」というレベルで否定されているということです。

ここで提起したいのは、以下の問いです。

「臨床的観察の価値と、その神経生理学的説明の正確さは、切り離して評価できるのではないか」

安全の感覚が大切であることは変わりません。身体感覚への注目が有効であることは変わりません。共調整の重要性は変わりません。これらは、より正確な神経科学的根拠の上に、改めて置き直すことができます。

「腹側迷走神経が活性化している」という説明ではなく、「疑核を通じた迷走神経出力が呼吸・心拍を調整している」という説明に。「背側迷走神経シャットダウン」ではなく、「防衛カスケードの慢性化」という説明に。

これは実践を否定することではなく、実践をより確かな根拠の上に置き直すことです。

最後に

この問いは、不快に思われる方もいるかもしれません。私自身がそうでした。

慣れ親しんで使ってきた枠組みを問い直すことは、容易ではありません。師事した専門家への敬意もあります。これまでの実践を否定されるような感覚もあるかもしれません。

しかし問いを持ち続けることが、科学的誠実さの基本だと思います。そしてその問いは、クライエントへの誠実さにもつながると信じています。

誤った理論的説明を取り除いたとき、私たちの臨床的観察と実践は消えるわけではありません。むしろより確かな地盤の上に立つことができます。

次回は、この問いを一般の方向けに、よりわかりやすく書き直したいと思います。

参考文献

英語文献

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邦訳文献

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